キツキ

→ 語義
  

杵築 (屹き)。
オホナムチが立てたイヅモの政庁都市。
これはソサノヲが立てたクシイナタ宮 (熊野大社) の場所に近いと考える。
  

島根県松江市大庭町、神魂 (カモス) 神社
  

【杵築】キツキ −広辞苑より−
島根県簸川(ひかわ)郡大社町の古地名。
  

貴霊 拠り 清地きつく 宮の名も 貴霊方なり サホコ国 換えてイヅモの 国はこれ』9文
イヅモキツキに 曲治の 剣を植えて うづくまり 詰り問ふなり』10文

  

  

キツキノミヤ

  
出雲の玉垣内つ宮。 
イヅモ時代のオホナムチの本拠。ホツマには「キツキ宮」という名は出てこない。玉垣内つ宮はスヘラギの宮のみに許される名称なので、オホナムチが津軽へ追放になってから名称変更されたと思われる。ホヒノミコトが空き家になった杵築宮に入って、初代の祭司となり出雲国造家の祖となる。
  

島根県松江市大庭町、神魂 (カモス) 神社
島根県簸川郡大社町杵築東、出雲 (イズモ) 大社
  

キツキ宮(杵築宮)オホナムチが出雲に居た時の本拠宮でまたの名を玉垣内つ宮。天日隅宮はここではなく、津軽のアソベ大本宮のことである。
■私論では出雲大社は、崇神天皇大物主神の祟りを恐れて、天日隅宮を出雲に復興再建したものである。出雲の神主フリネが討たれた後、出雲臣は恐れて神の祭をしなくなった。ヒカトベの子の歌に胸騒ぎを覚えた崇神天皇は「出雲を祭れ」と命じている。これが出雲大社の創始と見る。これ以降、出雲の政庁も旧杵築宮(神魂神社)から出雲大社に移転されたものと思われる。
■『高ければこそ 我が造る神の祠も 懸梯のまま』(37文) とあることから、イソノカミの原形は神を祭る宮ではなく、「高所に設けた剣の倉庫」だったと思われる。 懸梯を管理保管する者以外は神宝庫に近づくことが出来ないようにしたのだと思われる。
これに関連して思い起すのは、タケヒテルが奉った「タマカハの尊宝文」は出雲に収納された。詳細な場所は記されていないが杵築宮と思われる。また『出雲は上の道の本 八百万文を隠し置く』(34文) とも記されている。古代の出雲大社が非常に高かったというのは、やはり神宝庫としての側面があったからなのではないだろうか。

★『書記』汝が住むべき天日隅宮は、今供造りまつらむこと、即ち千尋の栲縄を以て、結ひて百八十紐にせむ。其の宮を造る制は、柱は即ち高く太く、板は即ち広く厚くせむ。 又田供佃らむ。又汝が往来ひて海に遊ぶ具の為には、高橋浮橋及び天鳥船、亦造りまつらむ。 又天安河に、亦打橋造らむ。又百八十縫の白楯供造らむ。又汝が祭祀を主らむは、天穂日命、是なりと。
★『大社問答』杵築大社は旧名天日隅宮また天日栖宮と申して高木神の勅、「又汝応住天日隅宮者今當供進即以千尋縄結為百八十紐其造営之制者柱則高大板則廣厚」云々、また記に「出雲國多藝志之小濱造天之御舎」云々、出雲風土記に「楯縫郡傳に神魂命勅、五十足天日栖宮之縦横御量干尋縄持而百結々下而此御量持而所造天下所造大神之宮造奉詔」云々、又杵築郷傅に「所造天下大神之宮将奉与諸皇神等参集宮処杵築故云寸付」などありて、其構造の廣大なるを以て杵築大社とも、出雲大社とも、また単に大社とも称へて、延喜式に名神大社とあり、是即幽冥主宰と坐す大國主大神の幽府の本府なり 。
  

『子のタケトメを 臣に請ふ タケヅツクサの 纏り継ぐ タケダの祖ぞ 尊宝 出雲に納む』32文
『六十年七月 十四日 御言宣 "タケヒテル  昔 捧げし 尊宝 出雲に在るを 見まく欲し" 』34文
神主フリネ 神祝に 筑紫に行きて 弟ヰイリネ  より出し 乙弟ウマシ カラヒサと子の ウカツクヌ 添えて捧ぐる』34文

  

  

【ホツマツタヱ解読ガイド】 【ミカサフミ解読ガイド】 【ふとまに解読ガイド】
【やまとことばのみちのく】 【にしのことばのみちのく】 【あめなるみち】
【ホツマツタエのおもしろ記事】